最悪のシナリオの場合で100年後に気温が6.4℃上昇する可能性があるなどとしたIPCC第4次評価報告書(AR4)の温暖化将来予測は、国内の報道でも大きく取り上げられ、多くの国民の知るところとなった。ゴア元米国副大統領の映画「不都合な真実」や折しもの記録的な暖冬の効果もあり、地球温暖化に対する危機意識はわが国でも次第に高まりつつある。国内の温暖化将来予測研究も、「地球シミュレータ」の利用を契機に過去5年間で著しい進展があった。しかしながら、国民に利用可能な温暖化の将来予測情報は、現時点では未だに断片的な数値や抽象的なイメージに留まっている。その背景には、予測の信頼性が明らかでないこと、予測の具体的な帰結が明らかでないこと、予測の空間的な詳細性が不十分であること、予測の社会経済情報との統合が不十分であることといった、いくつかの克服すべき課題の存在があると考えられる。そのような状況認識の下に、今年度より5年間の計画で、環境省地球環境研究総合推進費の新しい戦略研究開発プロジェクトとして、S-5「地球温暖化に係る政策支援と普及啓発のための気候変動シナリオに関する総合的研究」(以下、推進費S-5と略す)が開始されることになった。戦略研究開発プロジェクトは、環境省が研究テーマの素案を作成し、そこに参加するテーマレベルの研究者や研究計画を公募するという、トップダウン方式の制度である。公募に先立って、研究プロジェクトリーダーには、東京大学サステイナビリティ学連携研究機構統括ディレクターの住明正教授が指名された。課題選定の結果、筆者は総括班のテーマリーダーを務めることになった。本稿執筆時点ではまだ本格的な活動がスタートしておらず、プロジェクトの方向性等には参画研究者間でコンセンサスがない部分も多いが、総括班からの期待として筆者の私見を含めた形で、ここにプロジェクトの概要をご紹介させて頂きたい。
まず、これから何度も聞かれそうな質問に先回りして答えておきたい。推進費S-5と同じく今年度から5年間の計画で、文部科学省の「21世紀気候変動予測革新プログラム」(以下、革新プログラム)が開始された。これは、過去5年間に地球シミュレータを用いた地球温暖化予測で実績を上げた「人・自然・地球共生プロジェクト」の後継である。推進費S-5と革新プログラムは、どちらも温暖化の将来予測に関するオールジャパンプロジェクトである。では、両者はどのように異なり、どのような相互関係にあるのだろうか。住プロジェクトリーダーの言を借りれば、この区別は天気予報に置き換えて考えると分かりやすい。気象庁には「数値予報課」と「予報課」があり、数値予報課がコンピュータによる天気予報の計算を行う一方で、予報課は計算された結果をもとに、国民に分かりやすい天気予報に翻訳したり、警報を出したり、国民のニーズに応じた天気相談に乗ったりする。数値予報の計算がいかに正確になったとしても、予報課の仕事は変わらず重要である(近年、この一部は民間気象会社が担っているかもしれないが)。同様に、社会に利用可能な温暖化将来予測情報の質と有効性を向上させるためには、予測そのものの改良・高度化を図ることと、予測結果を利用しやすい情報に翻訳することの両方が重要と考えられる。文科省の革新プログラムが目指すのは主に前者であり、これを仮に「気候変動1) 予測研究」とよぶ。一方、推進費S-5が目指すのは主に後者であり、これを仮に「気候変動シナリオ2)研究」とよぶ。具体的には、推進費S-5では、モデル開発や予測実験そのものは原則として行わず、既存もしくは他プロジェクトの予測計算結果を利用して、主にその「翻訳」に関わる研究を行う。このようにして推進費S-5は革新プログラムと明確に区別されると同時に、両者は緊密な相互補完関係にある。実際に両研究制度は連携を図りながら進められることが環境省と文科省の間で確認されている。
推進費S-5では、最初に述べたような現状でのいくつかの課題を克服し、気候変動シナリオ研究を推進するために、4つの研究テーマが設けられている。表1に各テーマのタイトルおよび実施体制を示したのでご覧頂きたい。また、図1にはテーマ間およびプロジェクト外部との間の関係図を示した。以下に、各テーマの概要および位置付けについて、筆者の理解する範囲で紹介させて頂く。テーマ1は総括班であり、予測計算結果と社会のニーズの間に横たわるギャップを3つのステップで埋めるようにデザインされている。すなわち、予測計算結果から(1)不確実性研究を経て予測の信頼性を定量的に示し、次に(2)影響評価研究を経て予測の具体的な帰結を描出し(これを仮に「気候未来像」とよんでいる)、最後に(3)コミュニケーション研究を経て、これを「実感」可能な情報として効果的に社会へ伝達する方法論を確立する。この流れは、推進費S-5 の背骨を形作る。(1)、(2)により、不確実性を含めた影響評価(例えば影響評価の確率的表現)を目指すが、これは温暖化影響評価の「リスク評価」への発展を意味している。また、(3)のコミュニケーション研究には、教育心理学などの人文社会的アプローチを取り入れ、方法論の研究と併せてコミュニケーションの実践を試みる。テーマ2はモデルの信頼性評価研究である。複数の気候モデル(例えばIPCC AR4で用いられた世界の気候モデル)の性能を、様々な現象について観測データをもとに検証する。その結果に基づいて、モデルの性能(現在の気候、過去の気候変動の再現性)と予測の信頼性(将来予測の確からしさ)を結びつける「信頼性評価指標」を提示し、テーマ1の不確実性評価研究にインプットする。このテーマには、従来は温暖化のモデルよりも主に観測データの解析を行っていた「現象解析の達人」に多数参加してもらえる形になった。このことは、国内の温暖化研究コミュニティー拡大の観点から意義深いと同時に、現象解析の研究者から見ても温暖化という現象が重要な学問的対象として認識されつつあることの表れかもしれない。テーマ3は日本および周辺域を対象とした気候変動シナリオの高解像度化研究である。ここでは、計算領域を日本周辺に限定して解像度を高めた気候モデルである「地域気候モデル」を主要な道具として、推進費S-5としては例外的にモデル計算そのものも行われる。温暖化予測に対する国民のニーズとして、わが国は、わが地域は、わが県はどうなるのか?といった地域的予測情報を求める声は強い。そういったニーズに対応する必要があることは明らかだが、一方で、細かい格子で計算したからといって、本当にそのスケールで信頼性の高い予測ができているかどうかは別問題である。ニーズが大きいテーマであるだけに、地域的予測情報のどの部分は信頼性が高く、どの部分は低いのかを吟味し、ユーザーに伝えていくことが求められる。テーマ4は気候変動シナリオと社会経済シナリオとの融合を担当する。具体的な温暖化影響評価のためには、世界の各点における気候変化だけでなく、人口や GDPといった社会経済要素の変化シナリオが必要である。気候モデル実験の前提条件となる二酸化炭素などの排出シナリオは、通常、世界を数地域に分割して表現する経済モデルにより計算された、社会経済シナリオに基づく。これを、ある合理的な仮定のもとに、気候モデルの格子以下のスケールにマッピングし、将来シナリオにおける人口、GDPなどの分布データを作成する。さらにそれを基に、空間的に詳細な将来の排出シナリオ、土地利用変化シナリオを作成し、次世代の気候モデル実験の前提条件としてインプットすることも視野に入れる。
推進費S-5は、ある側面においては極めて実践的な研究である。社会のニーズに即した温暖化予測情報の構築、発信に努めることにより、各種意思決定主体が温暖化を考慮に入れた合理的な判断を行うための材料を提供するとともに、正しい科学に基づく正しい危機意識を一般市民に普及させ、市民レベルの温暖化対策の動機付けに貢献するのが重要な目的である。一方で、これを下支えする最先端の科学のテーマが、やはり推進費S-5の計画に組み込まれていることにも注目してほしい。例えば、気候モデルの信頼性評価手法の開発、影響評価の確率的表現といったテーマは、次のIPCCに向けて世界第一線の研究コミュニティーが取り組み始めた内容にほかならない。最後に、若干言いわけがましくなることを承知で、他プロジェクトとの役割分担についてもうひとこと触れたい。それは温暖化影響評価研究についてである。近年、温暖化適応施策に対する関心などを背景に、影響評価研究に対する注目が高まり、各省庁におけるファンディングにも影響を及ぼしている気配がある。文科省の革新プログラムにも、主として近未来の自然災害を中心とした影響評価研究が組み込まれており、環境省推進費のS-4「温暖化の危険な水準及び温室効果ガス安定化レベル検討のための温暖化影響の総合的評価に関する研究」でも、日本域を対象とした影響評価研究が2年前から組織的に展開されている。推進費 S-5では、これらのプロジェクトでカバーされていない時間・空間スケールを中心に、これらのプロジェクトと連携をとりながら、気候変動シナリオ研究の一部としての影響評価研究を進めていきたい。革新プログラムとの連携については前にも述べたが、推進費戦略研究開発プロジェクトの先輩課題である対策研究の S-3「脱温暖化社会に向けた中長期的政策オプションの多面的かつ総合的な評価・予測・立案手法の確立に関する総合研究プロジェクト」および影響研究の S-4と、S-5が密接な連携をとって進められることは言うまでもない。ちなみに、推進費S-3が「脱温暖化2050」という愛称で親しまれているのを参考に、S-5には「気候シナリオ『実感』プロジェクト」という愛称を検討している。ぜひこの愛称で親しんで頂くとともに、今後のS-5の科学的、実践的な活動にご期待頂きたい。
注1) 「気候変動」はここではClimate Changeのことで、「気候変化」としたいところだが、日本政府の訳語にならったものである。年々の自然変動のことではなく、(それを含んでもよいが)温暖化のトレンドに力点が置かれていることに注意されたい。本稿中の「気候変動」は全てこの意味である。
注2) 「気候変動シナリオ」は、影響評価研究の前提条件を指すことがあるが、ここではより広い意味で、予測結果を解析し、より実用的な情報に変換されたものをよぶ。